浮雲

読む 読み取る 感じてみて考えてみる 読書記録の部屋です

雑記 読書について

「速読術」というのが、あまり好きではありません。

文章を手早く読む、という事は良くあります。もっぱら新聞・ニュースの読み取り、仕事上のこと、webで、などの場合です。

一時期ほどではないですが、速読術やら瞬読やらの本は未だ多いですし、最近では本の内容を要約して2•30分で読める程度のモノにし提供するサービスも有りますね。それをさらに速読したら、2〜300ページ程の一般的な書籍が1•2分で読める、ということになるのかな?

最小の時間で必要な知識を得るために最大限に効率を追求する、というのはアリかと思います。ただ、読書の意味は短時間での知識の習得だけにある訳ではありません。何種類かの野菜をミキサーに放り込み、ガーっとかき回したらゴクゴクと一気に飲み干す(速読ってそんな感じ、ありませんか?)。そんな食事ばかりでは、生きていく事はできても、食することの楽しみを全部捨てているに等しいですよね。

難解な書物をうんうん言いながら、行きつ戻りつ、頂上へ向かっているのか深い森に彷徨い込んだのか、道標を見失いながらも懸命に進む。時にはそういう読書も必要なのでは無いでしょうか。

一日に10冊からの本を読んで、多少なりと思考回路が刺激されたからといって、どうだというのでしょう。手厳しい様ですが、そういった読書方法は、積み上げられた書類の山を手早く処理する単純作業以上のものではないと思います。

 

速読術の本は、もっぱらビジネス書などを念頭において書かれているものと思います。つまり適応範囲が限られる訳ですね。そういった本を読む主目的は、知識の習得、モチベーションの獲得等にある訳ですから、効率よくそれらを習得する事も必要でしょう。「効率よく」読むという事は、単位時間あたりの読み取り密度を上げるという事ですから、結果時短にもなるでしょう。

だとしても、そういった読書法を突き詰めた速読術は、要点を素早く要領良くピックアップする→不要な部分を手早く切り捨てるといった手法である訳ですから、うっかりすると著者の趣意を切り捨ててしまう危険があります。そんな危険を冒してまでも一冊を10分15分で読む必然性があるのでしょうか?

これに対しては、「そうならない為のテクニックが速読術だよ」といった声が聞こえてきそうですが、テクニックを総動員して仮に全てがうまく行ったとしてもどうでしょう?一番大事なことが抜け落ちていないでしょうか?

要約文を手早く作る。速読術とは突き詰めればそれだけのことではないでしょうか。そこには、自ら能動的に考え吟味し、感嘆し、悩みもするけど発見の驚きもある、といった「食の楽しみ」や、知力を尽くして自らの意見を生み出すといった要素は無く、受験テクニックと大差のない味気ない単調な作業があるだけの様な気がします。

 

「速読術」に対して随分と辛辣な内容になってしまいました。一つの技法としての速読術はありだと思います。ただあくまで読み方のひとつですから、これで問題解決「最強の速読術」のようなものには、大きな抵抗を感じるのです。