浮雲

読む 読み取る 感じてみて考えてみる 読書記録の部屋です

斜陽 太宰治

「じっさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいったようなものなんだ。しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある。」(本文より)

 

明治から昭和の戦中にかけて、「華族」と呼ばれる一群の人々がいました。一口に華族といっても、政権・経済の中心に位置した人々ばかりで無く、この物語の主人公達のように、体制側にありながら、その後経済的に困窮したり、その身の処し方を新しい時代に上手く合わせられず悩み苦しむ人々もいた様です。

物語は第二次世界大戦直前から戦中・戦後と進み、主要部分は戦後にありますので、華族制度も廃止され、いわば旧体制から弾き出された主人公達の顛末といえます。

冒頭の引用は主人公かず子の弟直治の言葉です。母を評して「あれはほんものだよ」と言わしめるところからも、作法から外れどこか奔放でありながらも品位を失わない振る舞いからも、高貴な血筋がうかがわれます。平たくいって仕舞えば「お姫様」の血筋でしょうか。であれば、かず子にも直治にもその血が流れていることになります。

 

「千円の借銭を解決せんとして、五円也。世の中に於ける、僕の実力、おおよそかくの如し。笑いごとではない。」

「人間は、みな、同じものだ。
 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。」

「僕は下品になりたかった。強く、いや強暴になりたかった。そうして、それが、所謂民衆の友になり得る唯一の道だと思ったのです。そうでなければ、あの民衆の部屋にはいる入場券が得られないと思っていたんです。」(直治の遺書より)

 

直治は洋画家の妻に恋心を抱き、その切なさを抱えたまま命を絶ちます。最後にはこう書き残しています。

 

「ママのかたみの麻の着物。あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直して下さったでしょう。あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。

 もういちど、さようなら。
 姉さん。
 僕は、貴族です。」

 

姉かず子は、弟が憧憬し、たった一度会っただけの妻子持ちで風采の上がらない酒浸りの小説家・上原なる人物を6年越しで想い、ただ一度の逢瀬でその子を身籠ります。

 

「何だかわからぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者、ああ、私は自分こそ、それだと言い張りたいのだ。」

「 犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生れる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。」(かず子から上原への手紙)

 

最後の貴族と敬愛していた母の死をきっかけに、蜘蛛の糸が切れた様に姉も弟も一気に転落します。

ただ違うのは、直治は安らぎと己が居場所を求めて死地へと転落し、姉かず子は新たなる戦いの地へと飛び降りた事です。

 

この作品は何度読んだことでしょう。私にとってのカタルシスなのかも知れません。時には姉に共感し、弟に共感し、上原なる人物にさえもシンパシーを覚えるのです。

時代の隙間の徒花といえばそうなのかも知れません。しかし、かず子の言葉にはナルシズムだけでは済まされない時代の重みと、それに抗う人々の戦いの軌跡を感じずにはいられません。

 

「どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。
 いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。」