浮雲

読む 読み取る 感じてみて考えてみる 読書記録の部屋です

運転者 喜多川泰

「運転者」

少し違和感がありませんか?「運転手」じゃなくて運転者? タイトルを見た時に何故かそんな違和感を覚えました。

不思議なタクシー... ならば職業を言い表す「運転手」じゃないの?この本に手をつけたきっかけは、この小さな疑問からでした。

 

中年にして歩合制の保険営業に転職し、二年目の修一。 しかし、なかなか思うように成果が上がらない日々を過ごしていた。

ある日、唐突な担当顧客の大量解約を受け、いよいよ金銭的にも精神的にも窮地に追いやられてしまう。妻が楽しみにしていた海外旅行計画はキャンセルするしかない。 娘は不登校に陥っているうえに、今後の学費の工面も難しくなるだろう。 さらに長い間帰れていない実家で一人暮らしをしている、 母からの電話が心にのしかかる。(紹介文より)

 

不登校の娘のことで学校から話があるので一緒に来てほしい、と妻から言われていたその約束の日に、担当顧客の大量解約が発生します。落胆し混乱する頭を抱えたまま、学校の面談の約束の時間が近づきます。

 

「…なんで俺ばっかりこんな目に合うんだよ」思わず独り言を言った、そのときだ。ふと目の前に、タクシーが近づいてくるのに気づいた。

「ええと……(どこへいくんだっけ...)」 思わず手を上げてしまったが、いろいろ考えごとをしていて頭の整理がついていない。 ミラー越しに運転手と目が合った。 一見高校生と見まがうほど若いその運転手はニコッと微笑むと、 「まずは、娘さんの学校に急いだ方がいいんじゃないですか?」 と言った。

「ああ、そうそう。それだ。頼むよ」 修一は慌ててそう言ったが、少し遅れて全身に鳥肌が立つのがわかった。 「ちょっ……」 修一が何かを言おうとしたときには、タクシーは動き始めていた。(本文より)

 

ここから物語は動き始めます。

知るわけのない主人公修一の行き先を告げてきた見ず知らずの「運転者」。更に奇妙な事に「69820」から下がり始めるタクシーメーター。その数字が「0」になるまではタダで乗れるという。しかも必要な時に現れ何度でも乗れるという。

行き先を告げるのではなく、(勝手に)行くべき所へ連れて行ってくれる不思議なタクシー。主人公は、いく先々で何かを知り、何かを学んでいきます。

 

本の帯には、大きく「報われない努力なんてない!」とありました。確かに、この本からそれは学び取れると思います。ただ、私がより強く感じたのは「因果」です。因果というと「何かの悪い行いとしての報い」の様なニュアンスを感じ取るかも知れません。業(カルマ あるいは日々の行いと言っても良いと思います)の結果としての現れであり、決して悪さの結果だけを指すものではありません。さらにそれは、自分から自身へと帰ってくるものだけをいうのではなく、時には人から人へ、世代から世代へと受け継がれ現れるものでもあります。ただ、なかなかその繋がりに気がつかない、それが普通ではないかと思います。

 

主人公修一は、「御任瀬 卓志」なる珍名の運転者に引きつられ、水の中に沈んでいる限りなく透明で、細く長い長い釣り糸、けれども切れることのないそれを少しずつ手繰り寄せていきます。何が水面下から上がってきたのか?それは皆さんご自身でお確かめを。

 

以下余談として。

この本を読み終えた時、一本の映画を思い起こしました。1988年のアメリカ映画「3人のゴースト」(原題Scrooged)。チャールズ・ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』の現代版です。

世界最大のネットワークを誇るテレビ局の社長に就任したフランク(ビル・マーレイ)。これが冷酷でなかなかの性悪な男なのですが、とある年のクリスマスの夜、「生放送」でクリスマスキャロルの舞台劇を放送するという、出演者・スタッフにとってはなんとも迷惑な(誰だってクリスマスは家族と過ごしたいですから)企画を立て実行します。

ひとり悦にいっているフランク。そこへ最初のゴースト「過去のゴースト」が現れます。実はこのゴーストのなりが、オンボロのイエローキャブに乗ったタクシー運転手なのです。彼に連れられ過去の様々な場面へと。そこでフランクが見たものは.. 。映画では、更に第2のゴースト(現在のゴースト / ファンキーな妖精)、第3のゴースト(未来のゴースト / 体長3mの死神)と続きます。

ストーリーの仕立てが似ているので、思い出したのかも知れません。「少し元気出さなくちゃ」といった時、手にとってみてはいかがでしょうか(本も映画も)。

 

 

 

インディペンデンス・デイ 原田マハ

インディペンデンス・デイ

なんとも勇ましいタイトルですね。高らかに鳴るファンファーレ。打ち上がる花火。舞い散る紙吹雪。

いえいえ、そんな騒々しいお話ではないのです。

その物語から次の物語へと、緩やかに重ね合わさりながらバトンしていく主人公達。24編の連続短編集。全ての主人公に共通している事は、女性である事、そして何かがうまく行っていないこと。

 

「T川を越えて、こっちと向こうじゃ賃料の設定が倍、違うんですよ。たった一駅で、お値段がぜーんぜん違うんですよ。」私は絶句した。

きっと境界線というのは人間にとって普通に存在するものなんだろう。  私にとって、それははっきりと目に見えるものだった。大きな川、というかたちで。(川向こうの駅までより)

 

ミサイルでも打ち込まなければ対岸にとどきそうにない大河(?)のほとりで主人公は愕然とします。すぐそこに見える真の都会。川のこちら側から「ステキな人々が住む街」への仲間入りを切望する菜摘。ここで引き下がるわけにはいかない!その執念が奇跡を呼び込みます。

「28歳にして生まれて初めてのひとり暮らしのアパートは、N駅から徒歩(ただしかなり早足で)二十分、築二十五年、かろうじて風呂トイレ付きのキワモノ物件だった。」

 

昔、私の妹がこんな事を言っていました。「20歳までに家を出ないヤツは馬鹿だけど、ハタチを過ぎてから家を出る奴は大馬鹿だ。」(勿論、冗談半分でしょうが)

 

とにも、彼女はついに川を越えた。

「ついに私は、独立したのだ。父から、あの町から。 目には見えない境界線の呪縛から。」

 

ここから物語は始まります。

23人の主人公(23人の主人公です)、上手くいかないそれぞれの何か。それに懸命に向き合う主人公達。答えでは無く、真に向かい合うべき何かを見つけ、物語は受け継がれていきます。

 

インディペンデンス・デイ

それが24話を貫通するキーワードです。23人の彼女達が何を見つけたのか。それは皆さん自身で確かめてみて下さい。

 

「あっち側からこっち側を眺めていたときは、ただの川原なのに妙にまぶしく見えたものだ。どんなにがんばっても向こう岸には行けないんだよなあ、と悲嘆したりもした。けれど、こっち側からあっち側を眺めると、その空は懐しい色に染まって見えた。おんなじ空なのに、なぜだろう、あっちの空のほうがおだやかで、優しい色に包まれているような気がした。」(菜摘の言葉 川面を渡る風より)

斜陽 太宰治

「じっさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいったようなものなんだ。しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある。」(本文より)

 

明治から昭和の戦中にかけて、「華族」と呼ばれる一群の人々がいました。一口に華族といっても、政権・経済の中心に位置した人々ばかりで無く、この物語の主人公達のように、体制側にありながら、その後経済的に困窮したり、その身の処し方を新しい時代に上手く合わせられず悩み苦しむ人々もいた様です。

物語は第二次世界大戦直前から戦中・戦後と進み、主要部分は戦後にありますので、華族制度も廃止され、いわば旧体制から弾き出された主人公達の顛末といえます。

冒頭の引用は主人公かず子の弟直治の言葉です。母を評して「あれはほんものだよ」と言わしめるところからも、作法から外れどこか奔放でありながらも品位を失わない振る舞いからも、高貴な血筋がうかがわれます。平たくいって仕舞えば「お姫様」の血筋でしょうか。であれば、かず子にも直治にもその血が流れていることになります。

 

「千円の借銭を解決せんとして、五円也。世の中に於ける、僕の実力、おおよそかくの如し。笑いごとではない。」

「人間は、みな、同じものだ。
 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。」

「僕は下品になりたかった。強く、いや強暴になりたかった。そうして、それが、所謂民衆の友になり得る唯一の道だと思ったのです。そうでなければ、あの民衆の部屋にはいる入場券が得られないと思っていたんです。」(直治の遺書より)

 

直治は洋画家の妻に恋心を抱き、その切なさを抱えたまま命を絶ちます。最後にはこう書き残しています。

 

「ママのかたみの麻の着物。あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直して下さったでしょう。あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。

 もういちど、さようなら。
 姉さん。
 僕は、貴族です。」

 

姉かず子は、弟が憧憬し、たった一度会っただけの妻子持ちで風采の上がらない酒浸りの小説家・上原なる人物を6年越しで想い、ただ一度の逢瀬でその子を身籠ります。

 

「何だかわからぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者、ああ、私は自分こそ、それだと言い張りたいのだ。」

「 犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生れる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。」(かず子から上原への手紙)

 

最後の貴族と敬愛していた母の死をきっかけに、蜘蛛の糸が切れた様に姉も弟も一気に転落します。

ただ違うのは、直治は安らぎと己が居場所を求めて死地へと転落し、姉かず子は新たなる戦いの地へと飛び降りた事です。

 

この作品は何度読んだことでしょう。私にとってのカタルシスなのかも知れません。時には姉に共感し、弟に共感し、上原なる人物にさえもシンパシーを覚えるのです。

時代の隙間の徒花といえばそうなのかも知れません。しかし、かず子の言葉にはナルシズムだけでは済まされない時代の重みと、それに抗う人々の戦いの軌跡を感じずにはいられません。

 

「どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。
 いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。」

 

 

 

 

 

 

雑記 読書について

「速読術」というのが、あまり好きではありません。

文章を手早く読む、という事は良くあります。もっぱら新聞・ニュースの読み取り、仕事上のこと、webで、などの場合です。

一時期ほどではないですが、速読術やら瞬読やらの本は未だ多いですし、最近では本の内容を要約して2•30分で読める程度のモノにし提供するサービスも有りますね。それをさらに速読したら、2〜300ページ程の一般的な書籍が1•2分で読める、ということになるのかな?

最小の時間で必要な知識を得るために最大限に効率を追求する、というのはアリかと思います。ただ、読書の意味は短時間での知識の習得だけにある訳ではありません。何種類かの野菜をミキサーに放り込み、ガーっとかき回したらゴクゴクと一気に飲み干す(速読ってそんな感じ、ありませんか?)。そんな食事ばかりでは、生きていく事はできても、食することの楽しみを全部捨てているに等しいですよね。

難解な書物をうんうん言いながら、行きつ戻りつ、頂上へ向かっているのか深い森に彷徨い込んだのか、道標を見失いながらも懸命に進む。時にはそういう読書も必要なのでは無いでしょうか。

一日に10冊からの本を読んで、多少なりと思考回路が刺激されたからといって、どうだというのでしょう。手厳しい様ですが、そういった読書方法は、積み上げられた書類の山を手早く処理する単純作業以上のものではないと思います。

 

速読術の本は、もっぱらビジネス書などを念頭において書かれているものと思います。つまり適応範囲が限られる訳ですね。そういった本を読む主目的は、知識の習得、モチベーションの獲得等にある訳ですから、効率よくそれらを習得する事も必要でしょう。「効率よく」読むという事は、単位時間あたりの読み取り密度を上げるという事ですから、結果時短にもなるでしょう。

だとしても、そういった読書法を突き詰めた速読術は、要点を素早く要領良くピックアップする→不要な部分を手早く切り捨てるといった手法である訳ですから、うっかりすると著者の趣意を切り捨ててしまう危険があります。そんな危険を冒してまでも一冊を10分15分で読む必然性があるのでしょうか?

これに対しては、「そうならない為のテクニックが速読術だよ」といった声が聞こえてきそうですが、テクニックを総動員して仮に全てがうまく行ったとしてもどうでしょう?一番大事なことが抜け落ちていないでしょうか?

要約文を手早く作る。速読術とは突き詰めればそれだけのことではないでしょうか。そこには、自ら能動的に考え吟味し、感嘆し、悩みもするけど発見の驚きもある、といった「食の楽しみ」や、知力を尽くして自らの意見を生み出すといった要素は無く、受験テクニックと大差のない味気ない単調な作業があるだけの様な気がします。

 

「速読術」に対して随分と辛辣な内容になってしまいました。一つの技法としての速読術はありだと思います。ただあくまで読み方のひとつですから、これで問題解決「最強の速読術」のようなものには、大きな抵抗を感じるのです。

 

 

博士の愛した数式 小川洋子

「簡潔に申せば、頭の中に八十分のビデオテープが一本しかセットできない状態です。そこに重ね録りしてゆくと、以前の記憶はどんどん消えてゆきます。義弟の記憶は八十分しかもちません。きっちり、一時間と二十分です」(本文より)

 

家政婦として女手一つで一人息子を育ててきた「私」に与えられた新しい仕え先は、80分の世界の中でしか生きられない、元数論学者(義弟)でした。

ひどい猫背で160センチ程の身長。ぱさついて好き勝手な方向に跳ねる白髪。例外なく毎日背広を着てネクタイを締める。3着のスーツに3本のネクタイ、6枚のワイシャツに一足だけの革靴。

 

しかし洋服に関して言うならば、最も私を戸惑わせたのは、背広のあちらこちらにクリップで留められたメモ用紙の数々だった。それらは衿、袖口、ポケット、上着の裾、ズボンのベルト、ボタンホール等など考えつくかぎりの場所に張り付いていた。八十分の記憶を補うため、忘れてはならない事柄をメモし、そのメモをどこへやったか忘れないため、身体に張り付けているのだろうと察しはついたが、彼の姿をどう受け入れるかは難問だった。博士が動くと、メモ用紙がこすれて、かさこそ、かさこそ、音がした。(本文より)

 

その袖口に付けた一番大事なメモ「僕の記憶は80分しかもたない」。

なんと残酷な事だろう。いつもの様に起き、着替え袖口に視線を落とす。「僕の記憶は...」。毎朝終身刑の判決を言い渡されている様なものじゃないか。

 

「君の誕生日は何月何日かね」

「2月20日です」

「ほう..」

そう言うと博士は腕時計を外しその裏に刻まれた数字を見せた。

「No.284」

"220"と"284"

220の約数 1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=284

284の約数 1+2+4+71+142=220

「見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい?」

 

数字が持つ、神から授けられた使命を瞬時に見抜く博士。その美しさを感じ取ることの出来る審美眼と感性。広大無辺の数字の世界。限られたものにしか覗き見ることのできない神の手帳。

この世界があったからこそ、80分しか持たない記憶の世界で正気を保ち生きていけるのでしょうか。

 

事故の日以来一歩も前に進まない記憶。

ここは少し余談ですが、同じ日から抜け出せなかったら?同じ日を何度でも繰り返すことが出来たなら? といったテーマは映画としてもよく取り上げられていますね。SFや恋愛、啓蒙的なものまでいくつか思い浮かびます。その中でも好きな映画として、1993年製作「groundhog day」というアメリカ映画があります。groundhog dayとは、物語の舞台となるペンシルベニア州の町パンクスタウニーで毎年2月2日に行われる伝統行事で、ジリス(地リス)の一種グラウンドホッグ(ウッドチャック)を使った春の訪れを予想する季節占いの行事です。この日、冬眠から目覚めたグラウンドホッグが自分の影を見れば冬はまだ長引くと占われ、それを見なければ春の訪れは早いとされます。その祭りをTVレポートで訪れたお天気キャスターのフィル(ビル・マーレイ)が、どういうわけかその2月2日から抜け出せなくなり... という物語です。日本公開もされ邦題もあり、扱いはコメディですが、良い映画です。運が良ければビデオ屋さんにもまだ取り扱いがありますので、興味あれば見てみて下さい。ちなみに邦題はどうにも気に入らないのでここには書きません... (原題のままでいいのに!)。

余談ついでに、「博士の愛した数式」というタイトル、なんかいいですよね。この本は、実はタイトル買いしたもので、そのまま映画のタイトルにもできそうですね。実際に映画化もされてますが... こちらの映画も見てみました。ちょっとだけ・・という事で映画の(あくまで映画の)好き嫌いについてはお察しください。

 

余談の方が本題よりも長くなってしまったようです。本も映画も好きなのでご容赦下さい。

 

この物語の主題はなんだろう?久しぶりに読み返した時、それを自分なりに考えてみました。

事故の日以来一歩も前に進まない毎日。つまりそれは同じ日を生きる、あまつさえ80分の中で生きるという事は、今この時をを生きることに他ならない。それを著者の小川洋子さんは提示しているのかなと感じます。それは数論の世界同様、とてつも無く奥深い世界ではないでしょうか。その世界の中に、まだ見つけられていない神の数式がきっとある。そうは感じないでしょうか?

 

 

 

 

夜のささやき、闇のざわめき 英米古典怪綺談集

海外古典文学の読みにくさを考える時に、こんな経験はないでしょうか?

登場人物がやたらに多く、その人名もなにやら発音しづらく憶えづらく、それらの関係を把握しきれないまま物語が進んでいく。

あるいは、修辞句がとても長く多く、文章の流れが冗長に感じる。

文章に凝らされた修辞法を忠実に翻訳するあまり、日本語として不自然。

 

これらの事は、海外古典文学のもつ文章の豊穣さの裏返しですね。修辞法を巧みに使い格調高く文章を書き整える。そこが古典文学の魅力でもあるのですが、その格式がいかにも重く億劫に感じる時もあります。

そんな時、古典文学の味わいも残しつつ、もう少し軽く読める読み物として奇譚集を読むことがあります。

 

この本は、14編からなる奇譚集です。

「奇譚」珍しい話・不思議な話。勿論、怖さもその中には含まれるのですが、「不思議 > 怖さ」な物語が好きです。恐怖モノのミステリーでは息抜きになりませんから。

 

ときおり、マスが蛾をとらえるパシャッという水音。それを除けば、夜の完全な静寂を犯す音はなかった。  そうして丸々一時間ばかりが過ぎた頃、私はこの半ば夢見るような陶酔状態からふと我に返った。身を乗り出し、耳を澄ませた。それは真夏の夜に耳にするには奇妙な音だった。それでもやはり、沈黙に慣れ、研ぎ澄まされた私の耳には、それは凍りついた水面を緩やかな曲線を描きながら滑走する人の、スケート靴が規則的に氷を蹴る音にしか聞こえなかった。

ほとんど無意識のうちにその岸のカーブに目を凝らすと、そこは丈の高い木々の落とす影でインクのように真っ黒だった。沈黙に慣れた私の耳はその音の変化を一つ一つ辿り、その意味を解釈し、やがて私の心は囁いた。「ほら、来るぞ」(湖上の幻影より)

 

私が感じる海外の奇譚集の魅力は、不思議さ怖さが美しさと共にある、と感じる点です。美しく調和の取れた情景の中に、突然異質な何者かが現れる。え?どういう事?その瞬間心が惑い、その異物を理解しようとするうちに恐ろしさが湧いてくる。そんな心の動きが好きなのです。

 

重い重い物語に疲れてしまった時、奇譚集を手に取りページを開いてみて下さい。「ほら、来るぞ」

 

 

掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン

ある日彼女のトイレの水があふれて、うちのシャンデリアを伝って床まで水がしたたり落ちた。まだ灯ったままの明かりに水しぶきが散って、虹がかかっていた。アーミテージさんは死にかけの冷たい手でわたしの腕をつかんで「ああ、奇跡みたいだわねえ」と言った。(エンジェル・コインランドリー店より)

※「彼女」とはアーミテージさん。水漏れを起こした真上の部屋に住む老婆。

 

トイレの水、虹、死にかけの冷たい手、奇跡。

 

どこのページでも構いません。もしこの本を手に取る機会があったら、指の吸い付くところから開いてみて下さい。そこからほんの数ページ読み進んでみれば気がつくと思います。おおよそ一文に並ぶはずも無い言葉が、あたかもそれ以外に表現方法がないみたいに書き連ねて有ります。

 

なんなんだこれは、と思った。聞いたことのない声、心を直に揺さぶってくる強い声だった。行ったことのないチリやメキシコやアリゾナの空気が、色が、においが、ありありと感じられた。見知らぬ人々の苛烈な人生がくっきりと立ち上がってきた。彼らがすぐ目の前にいて、こちらに直接語りかけてくるようだった。(訳者あとがきより)

 

もちろん全ての作家さんは、その人独自の表現方法を持っています。その中でも、ルシア・ベルリンならではの描写には強く惹かれます。彼女の言葉はナックルボール。有りえない角度で揺れながら飛んでくる魔球。

 

決して奇をてらう文体では有りません。ごく誠実で真面目な私小説・短編集です。でもその中のそこかしこに現れる、意表を突かれる描写。その描写を鮮やかに収める文章力。

 

なんなんだこれは...

私もまたそう感嘆した一人です。